AYALA’s Profile
NAME Roberto Fabian Ayala
PLACE OF BIRTH Parana(Arg)
DATE OF BIRTH 14th/Apr/1973
HEIGHT/WEIGHT 177cm/75kg
NICKNAME Raton
POSITION DF(Center back)
NATIONALITY Argentina (Italyパスポートも所持しているらしいが疑惑もあるのでよくわかりません)
DEBUT AT FIRSTDEVISION 23rd/Dec/1992
FIRST GOAL AT FIRSTDEVISION 31st/Oct/1993
AGENT Fernando Hidalgo
TEAMS




Ferrocarril Oeste(Arg/1992〜1994)
River Plate(Arg/1994〜1995)
Napoli(Ita/1995〜1998)
AC Milan(Ita/1998〜2000)
Valencia(Spa/2000〜)
Period of contract of VALENCIA CF
clause of rescission
Jun/ 2005
10,000 million pesetas
AYALA’s HISTORY
1973年4月14日、Entre Rios州Paranaの中流家庭に生まれる。
幼少期はストリートで育ったと言っても過言ではないくらいサッカーに没頭していた。また、大人しい子供だったらしく(人は変わるもんだね)祖父と家の中で何時間もボールの修繕をしたりして過ごしたりすることもあった。彼にとってボールは最高のおもちゃであったのだ。
サッカーをする傍ら、父親の経営していた冷肉(ハムやソーセージなど)や乳製品を扱った会社の手伝いをし、住んでいたParanaと Santa Feに牛乳などを配達して家計をささえていたという苦労人でもある。
1988年Atletico Parana(このクラブは800人以上は収容できない小さなスタジアムを持ったクラブだった)のプリメラチームでデビュー。
翌年父が所属していたSan Joseで父とプレイしていた。父のRoberto Camiloがリベロで、アジャラはストッパーを任されていた。この「AYALA-AYALA」のCBコンビは、Liga Diamantinaの歴史の中でもベストコンビであった。
1989年に親友のGabriel BellinoとFerrocarril Oesteのテストを受けるが、落ちる。翌年再チェレンジして合格。
Ferrocarril Oesteでは、クラブがLa calle Fragata Sarmiento al 800に所有する寮で親友のBellino、Fabian Rimunda、 Guillermo Samso、 Daniel Giordano、 Jorge Vazquez、Daniel Doelloと暮らしていた。またそこのAmaliaおばあちゃん(本名はJuana Silveraというウルグアイ人の女性)はとても彼らに優しく、アジャラ曰く「(おばあちゃんの煎れてくれた)カフェラテは世界一だよ」だったそう。
Ferrocarril Oesteの寮で最良の時を過ごしていた1992年2月23日、対Belgrano de Cordoba戦でプリメラデビュー。
当時のテクニカルディレクターであるCarlos Timoteo Griguolは、アジャラについて「彼はアルゼンチンサッカー界で屈指のディフェンダーになれるすべての要素を持っている」と語っていた。
プリメラデビューから2年も経っていない、1993年Alfio Basileによって代表に初めて召集される。
1993年Daniel Passarellaの要望でRiver Plateへ移籍。94-95シーズンRiver Plateでリーグ優勝。Ratonというあだ名はこの頃ついたようだ。

アジャラがタフで空中戦や身体的技術が高く、意思の強いディフェンダーだということを証明し始めると欧州サッカー関係者がアジャラに興味を示すようになった。
1995年、Serie AのParmaに移籍するが、ParmaでプレイすることなくレンタルでNapoliでプレイすることとなる。同年、Daniel Passarellaは当時弱冠22歳のアジャラをキャプテンとした。
1996年アトランタオリンピックで準優勝。
1998年NapoliがSerie Bに降格するとAC Milanに移籍。しかし同年のフランスワールドカップでマイケル・オーウェンの引きたて役を演じてしまい、AC Milanでの2年間はレギュラーの座は掴めなかった。
98-99シーズンAC MilanでSerie Aリーグ優勝を経験(Serie A年鑑のビデオなどで喜んでいる姿が確認できます)。
アジャラがAC Milanでカップ戦要員としてベンチを暖めていたころ、Valencia CFの会長Jaime Ortiは、当時同チームの監督であったHector Raul Cuperに「カンペオンになるためには何が足りないか」と問うと、そのアルゼンチン人の監督は「アジャラと契約することです」と即答。
2000年、Valencia CFへ移籍。Champions Leagueファイナリストとなった同年UEFAベストディフェンダーに選定された。
2001年、バレンシアの精神的支柱であったカピタンのメンディエタが去った後にアルベルダ、カルボーニと共にバイスキャプテンに任命される。当然キャプテンはカニサレス。(この4人でバレンシアのCapitanes。キャプテンマークの順位はカニ>ダビ>アジャラ>カルボーニかと思われます。カニが途中退場する時に直接アジャラに手渡したりとかもするのできちんと決まってないのかも。)この年にもUEFAのセカンドベストディフェンダーに選ばれている。
01-02シーズン、ValenciaでLiga Espanolaリーグ優勝。
これらのアジャラの功績にManchester Unitedは5千万ドルでアジャラ獲得に乗り出した。これはディフェンダーとしては異例の巨額のオファーであった。しかしアジャラは自身のキャリアをValencia CFで終えたいという意向を発表し、同チームに残留。
2002年日韓ワールドカップでは事前の選手間での投票でキャプテンに選ばれたものの大腿部の故障でナイジェリア戦の数時間前に欠場を決め、アルゼンチンはグループリーグで敗退し、アジャラは不出場に終わった。
2003年9月9日の南米予選、対ベネズエラ戦にて79キャップを記録し、アルゼンチン代表としてのキャップ数が歴代5位になった。







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